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佐々木隆生先生インタビュー

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2017年6月21日(水)、羽田空港で北海道大学名誉教授佐々木隆生先生のインタビューを行いました。と書きたかったところですが、あいにくその日は風雨が強く、佐々木先生がインタビューのために遅らせてくださった航空機が欠航となってしまいました。東京の学会後羽田空港でのインタビューにお時間をとっていただいたのですが、空席のある唯一の便ですぐに帰らなければならなくなってしまいました。そこで、羽田空港では写真のみ撮らせていただきまして、メールでインタビューさせていただきました。佐々木先生は、中等教育での生徒の自己形成に古典を読むこと、しかも著者と会話をしながら読むことを推奨されていらっしゃいます。その点について、質問させていただき御回答いただきました。
 
Q1 高校生に古典を読むことを勧められていますが、コンセプトを教えてください。
―知識を得るということは、現在という時点に立って過去の知恵を自己の財産にし、その上で自分の思考を創り出す準備を行うことを意味するのではないでしょうか。すると、世界史や倫理の教科書に書いてある「ホッブズとジョン・ロックは社会契約をもって国家の成立根拠を明らかにしたが、ホッブズが戦争を自然状態と考えたのに対してロックはそれを否定した」程度の知識をもつだけでは意味がありません。なぜホッブズとロックは自然状態を異なってとらえ、どのような事実や論理に基づいて社会契約を唱えたのかを理解しない限り、両人の思想を理解することはできないし、自己の思考を豊かにすることもかなわないからです。同じことは人文・社会科学だけでなく、自然科学にも数学にも言えるでしょう。
 このような知識の獲得の仕方は、デカルトが『方法叙説』で、「すべての良書を読むことは、それらの著者であるところの、過去の時代の最も優れた人々とのいわば談話」だと言っているように、著者の此岸に立って耳を傾け、わからないところや自分の考えと突き合わせながら彼岸から著者に問いかけることから始まるのではないでしょうか。そして、その過程で自分の中で思考を、つまりこれまでの自分の考えと著者との対話を通じて得る思考との対話を行って自己の思考を新たに創り出し、その上で同じ作品を読んだ仲間と対話をしていくという営為が生まれてくるのだと思うのです。このような営為は、解説書を読んでは決して得られないものです。私は「古典に親しむ会」というのを2011年から月一回ほどやっていますが、「解説書や訳者解題などは読まずに、とにかく著者の語ることに親しむ」ことを薦めています。
 ずいぶんになるかと思いますが、高校生、大学生、大学院生が読書をしなくなっているような気がします。高等学校の図書館の利用などについて高校の先生方に聞いても、私が大学で接した学生、院生、若い研究者とのやりとりでもそう思うのです。ヴェーバーとデュルケームの相違をすらすらと述べる人にはよく出会うのですが、実際にヴェーバーもデュルケームを読んでいる人にはめったに出会わないのです。
 人間の思考には「完成」はありませんし、常に新たな課題に向かって思考が試みられているのですが、その際、過去の人間の知恵で現在にも生きている古典的著作は、独立した自我を創り出していく思春期から読むべきものではないでしょうか。外国のことをあまり言いたくはないのですが、欧米では多くの古典的著作を読ませるのが教育の大きな柱になっています。しかし、この国では、残念ながら最も必要とされる高校段階ではさきほど紹介したような教科書的な「死んだ知識」の獲得に傾き、大学は専門教育に傾斜してしまい、広く古典的著作に親しむことがなくなってきています。旧制高校の教養主義には批判がなされても構わないのですが、古典的著作に親しむという営為自体をしない、もしくは軽視することは、人間としての成長という視点からも研究の発展という視点からも戒められるべきだと思うのです。ですから、高等学校から大学にかけて、「本を読む」ことが「対話」だということ、殊に著者の語る論理を軸にした対話だということを経験してほしいのです。
 
Q2 現在の本も数十年たてば古典として扱われるでしょう。なぜ、現在出版されている本ではだめなのですか。
―もちろん現在の様々な著作の中で後に「古典」とされるものがでてくるでしょう。注意しなければならないのは、そうした著作は必ず以前の古典的著作の継承や批判などを経た上での創造的思考を著したものとなっていることです。文学作品でも、自然科学上の論稿でもそれは変わらないでしょう。過去の古典との対話を欠いたものは独善と論理を欠いたものになりがちです。古典的著作の中に誤りはいくらでもありますし、対立した考えが常にそれらの中に見られるのですが、それらがどうして生じたかを考えずに、現代には意味のないものだという態度をとる、あるいは対立意見への深い洞察なしに一方の立場を選択すると、古典的著作群が提起してきた問題をみないで終わってしまいます。
 私の「高校生のためのリベラルアーツの会」では、古代や中世の古典に限らず20世紀、さらに現代でも優れた著作を取り上げることにしていますが、それら新しい著作は、いずれも古典的著作との対話を経ているものです。
 
Q3 現在の中等教育でも、生徒の主体を形成していけるよう、さまざまな工夫がなされていますが、古典を読むことがそれよりも優れているのですか。
―「アクティブラーニング」のことでしょうか?アクティブラーニングとしてグループワークなどを通じた教授法が注目されていますが、「内発的動機をもった主体的で能動的な学び」がアクティブラーニングの内容をなしていることを忘れてはなりません。一般的な授業でも強い関心と学習意欲をもつ学生・生徒は授業に主体的に取り組んでいきますし、フンボルト型大学でのゼミナールも主体的学びを育むものです。
 そのような主体的で能動的な学びを導くには、未知の世界への強い好奇心と問題意識の誕生、そこから生まれる必要な知識や技術の習得への意欲とともに、論理的で反省的な思考が求められます。読書の中での著者との対話、自己との対話、他者との対話を通じた論理的で批判的な思考の形成が不可欠のものとなるのではないでしょうか。読書の中ではじめて創造的な思考との邂逅を果たし、その世界に魅せられて自己の思考を深め広げることは、「死んだ知識」に基づく思考とは異なる主体的な学びを実現するものです。それは、グループワークなどでは十分果たすことができないものでしょう。主体的な学びと読書は対立するものはなく、前者は後者を必要とするのです。
 
Q4 著者に問いかけながら会話をするという方法を勧められておりますが、本によっては読者にそれをさせない、質の低いものもあると思います。読者が会話をできる古典をどのような基準で選ばれているのですか。
―古典的名著を探すのに苦労はいりません。ヤスパースの言う、「枢軸時代」からはじまって人間とその社会、自然やシンボル(言語や数学など)についての古典的名著は山のようにあります。文学作品もそれに含まれます。それらの中から、高校生にとっての「普通教育general education」という枠の中で考えるべきいろいろな課題に即して、高校生が挑むにふさわしいものを選ぶだけです。つまり、その後の人生の中で自ら考える拠点となりそうな課題と著作を選べばいいのです。ですから、質の低い書物、対話の対象とできないようなものが紛れ込むことに苦労することはないと思います。